難しい内容を含んでいるので、私の中国語の水準では、施さんや王さんの論点を正しく理解できていないかもしれません
。どうしても異文化間の対話は誤解を招きやすいものです
。もし間違っていたらお許しください。また、長い日本語の文章ですので、もし万が一小人家が訳されるとしたら、お詫び申し上げます。すみません
。
さて、まず、“普通的学问”の意味ですが、それは31日の現代民俗学会“超越福田亜細男”シンポジウムで福田先生が述べられていたものとまったく同じです。“普通的学问”とは、学院化し、他の学問と同様に学問の作法と学問ルールをもち、さらに他の分野と共通の言語で交流する仕組みをもった学問のことです。福田先生は、1970年代からずっと、日本の民俗学が普通の学問となることを切望し、努力されており、その意志は私にも引き継がれています。
福田先生や私が、“普通的学问”を主張するということは、かつて日本の民俗学が普通ではなく、さらに現在でも、それが普通ではないという否定的な状況にあることを示しています。福田先生が活躍し始めていた1970年代には、まだ第一世代が多く残っていました。彼らの大半は、アカデミックな民俗学教育を受けていない、さらに学問に責任を持つ必要のない非職業的研究者たちでした。それを、改革して学問化しようというのが、第二世代の福田先生の大きな動きでした。
しかし、それは十分に完成しませんでした。現在、日本民俗学会は2300人もの会員を有しますが、そのなかで職業的な研究者、すなわち大学の研究者や、その他博物館などの公的機関に所属する研究者は三分の二までは達しないのではないでしょうか(推測です)。すなわち、他の学問と比べ、いわゆる非職業的な研究者、あるいはアマチュアが学会に多く関わっているのです。その状況は、他の文化人類学会や社会学会などと比べ、「普通ではない」状況にあります。
ただし、いまの日本の民俗学の問題は、そのような非職業的な研究者にあるのではないと、私は考えます。問題は、大学に職を持っている職業的で専門的(professional)である(はずの)研究者のレベルの低さだと私は考えます。私個人の意見としては、専門的・職業的な学問社会で立派に通用する研究者は、日本民俗学会の2300人の会員のうち僅か100名程度ではないかと思っております。大学に勤めて教授を名乗っていても、それは狭い民俗学の世界だけで通用しているだけであり、広く学問社会では名前も知られていないし、相手にされていないのです。中国も日本も同じですが、当然、職業的な研究者のなかに、優れた人もいれば劣った人もいます。その差が、日本民俗学では、いまだに大きいといわざるを得ません。
福田先生は宮田登先生などともに、アマチュア的な第一世代の研究を学院化するにあたって、概論書、調査・研究ハンドブック、集成、日本民俗大辞典などの基本的な書物編纂を主導し、民俗学の体系化と科学化を推進しました。それは、民俗学を「標準化」しようとする試みでした。その時点では、この「標準化」の試みは正しく、またその時代に必要とされていたものでした。このような標準化の過程で、大学教員ポストが開拓されましたし、また、国家が与える科学研究費の一項目として民俗学が採用される、すなわち公的、社会的に学問として認められることとなりました。したがって、私は、その標準化をその時代において肯定的に評価します。
しかし、その後、その標準化の結果、学問の画一化、あるいは標準を金科玉条のごとく変えない学問の硬直化という現象が起こりました。この現象にはまり込んだのが、まさに変革を起こしたはずの第二世代それ自身になるわけです。第二世代は、戦後、大学教育のなかで民俗学を学んできました。そのなかで論文の書き方や資料の集め方など、学問の作法を学んでいます。しかし、理論や目的、対象に関し、福田先生たちが標準化したものを素直に受け入れるだけで、何の疑問もなく惰性で研究を継続してきました。自らが独自に考えるという努力を怠ってきたのです。そして、それは現在まで続いているのです。
そのような研究者は、できたばかりの未熟な学問=民俗学に閉じ籠もり、国際的な研究水準を勉強したり、また、他学問の知見を取り入れたりする努力を怠りました。その結果、1990年代から他の人文・社会科学が大きく変容するなか、民俗学だけは変化せずに取り残されたわけです。すなわち、民俗学は、再び“普通的学问”ではなくなってしまったわけです。
本来ならば、福田先生たちの標準化のあとに、その標準を時代や学問状況に合わせて更新する努力を後輩たちは継続すべきでした。ただ残念なことに、第二世代の大半は、そのような能力と意欲に欠けていました。その結果、1990年代からの日本民俗学の停滞が今日まで継続するわけです。
一方、1990年代から、若手を中心に改革、あるいは新しい民俗学の構築を試みる動きは起こっています。その中には、中国には紹介されていないけれども、先進的、先鋭的な論考もたくさんあります。そもそもこれまでの日本と中国の民俗学の交流は、第二世代を中心とするものでした。そこで紹介されてきた日本民俗学の業績は、必ずしも優れている研究者や論文・書物ばかりではありません。
1990年代以降の日本民俗学研究は、関心も研究方向も方法も多様であり、統一された方法論や目的、あるいは民俗学の位置づけというものすら共有していません。そのため、「第三世代」と一括りにすることには若干ためらいがあります。そのひとつひとつの研究の動きには、目新しく革新的なものもあるのですが、民俗学全体を一つで代表するような力をもっていません。それらの共通点をあえて探すならば、「歴史民俗学―福田先生がどうしても捨てることができないもの―を否定する」ことでしかないと福田先生は受け止めています。したがって、福田先生は、このような歴史民俗学を否定し多様な民俗学像を求める1990年代以降の動きに対して、「民俗学の頽廃」という強い否定をされているわけです。
しかし、このような研究の不統一や拡散は、ポストモダン時代には他の人文・社会科学でも同様に起こっている現象です。多くの学問において、グランド・セオリーは揺らいでいるし、一つの考え方や手法で研究を進めるなどということはできなくなっています。さらに加えて、手法や理論、対象が脱領域的、分野横断的に繋がるようになっているわけです。そういった状況で、民俗学という学科disciplineにこだわること自体が、意味のないこととされる風潮も日本ではあります。そのような状況は、混沌とし混迷している状況なのですが、第二世代のように頑迷に変わることを拒む学問姿勢よりも、将来への可能性をもっていると私は思います。したがって、私は福田先生とは正反対に、この状況を「頽廃」ではなく、新しい民俗学の胚胎期であり、それ生み出すために雌伏して機会をうかがう重要な時期だと考えています。
そうはいうものの、現在の若い大学院生は、第二世代の研究者に育てられ、かなり考え方の制限を受けるために、第二世代と同じ考えをもち、それを継承しようとする者もいます。皮肉なことに、若手ほど保守的で革新を拒むという傾向もあります。それは、学界を牛耳り、研究環境を支配する第二世代に責任があるわけです。
第二世代は、第一世代と違いアカデミックな教育を受けてきたわけですが、本当に学院化が成功したわけではありません。いまだに、第一世代が生み出した、「常民」や「伝承」などといった、「日本」でしか通用しない、そして「民俗学」でしか通用しない異常な専門用語(jargon)を使用する研究者もいます。まともな研究者ならば、これらの言葉がすでに陳腐化し、現代社会で使用不可能なことくらいは気がつくはずですが、閉じ籠もった第二世代やそれに教育を受けた若い大学院生などは、気がつかないわけです。また、気がついても他の学問と交流したり、海外の民俗学と交流する能力がなく、それに恐れを感じているために、敢えて自分たちだけの世界に内向的に閉じ籠もっているのです。それは、排他的な「愛民俗学主義」です。
こういった状況を打破するためには、第二世代をきちんと理解し、その問題点を明らかにし、そしてそれを清算し、乗り越える必要があります。第二世代を無視したり、黙殺したりして、なし崩し的に変化を起こすというのではなく、ちゃんと正面から闘うという姿勢が必要なのです。そのために企画されたのが31日の“超越福田亜細男”シンポジウムでした。そこで明らかになったのが、「民俗学=歴史学」という日本特有の位置づけと、そして、それを絶対に変えないというかたくなな福田先生の姿勢でした。見事なほどに、福田先生は変化することを拒んでいます。それは潔いほどです。
しかし、今の日本民俗学が21世紀に対応するには、歴史民俗学的性格をその学問の「全体」ではなく、「部分」へと変えなければならない。福田先生が大事にする手法を、民俗学のone of themにしなければならないのです。それは、そのシンポジウムで明らかになったことだと思います。しかし、一方で具体的な他の強力な選択肢を、現在、我々は提示することはできません。先に述べたように、実際には第三世代の関心や方法は多様化しています。そのひとつひとつは福田先生が主張するような歴史民俗学ほどの統一性をもっていない。むしろ、多様であることにこそ今後民俗学が継続する可能性を孕んでいるのです。これは生物多様性の問題と同じです。
多様な民俗学を積み重ねながら、そのなかで有力な民俗学を取捨選択しなければならないのです。福田先生も、シンポジウムのなかで話していましたが、これからは多様な民俗学が生起し、それぞれが民俗学の正統性を獲得し、覇権を争う競争、闘争が必要なのです。研究の拡散とそれぞれの競争が、これから求められているのです。しかし、現状の日本民俗学の第三世代は、中国の第三世代と異なり人間関係においても、価値においても分断されています。だから日本民俗学では学術革命は起こりえない状況にあります。研究の手法が単純な日本の第二世代の方が、むしろ結集しやすいのです。当然、結集力が強いグループが、学界の主導権を握っています。しかし、これから徐々にですが世代交代が進むでしょう。その過程で、第三世代が主導権を握って、小異を捨てて大同団結することができれば、日本民俗学は大きく変わることができるでしょう。ただ、それは簡単なことではありません。むしろ、それぞれの研究者の民俗学=学科disciplineへのアイデンティティが弱まりつつある現在、民俗学にしがみつくのは変われない能力の低い研究者だけかもしれません。また、小異にこだわって、大同できない状況が続くかもしれません。
私は、社会学や文化人類学、歴史学などの分野で学際的に研究活動を行っておりますが、自らの学問のアイデンティティは民俗学としています。民俗学にかなり強くこだわっている研究者です。それは、自分の学問的出自が民俗学にあるということだけではなく、民俗学に、いまだ他の学問にない可能性を見出しているからです(その可能性についてはまた別の機会に)。他学問の研究者や、民俗学にアイデンティティを強く持たない民俗学者からは、「なぜ、まだ民俗学にこだわるのか?」とよく質問されます。そのとき、必ず「民俗学には、他の学問にない可能性が、いまだあるからです」と答えることにしています。もし、そのような可能性が、本当に民俗学に見出せなくなったとしても、私は敗北を抱きしめながら民俗学者と名乗るつもりです。それは孤独な闘いですが、70年代には福田先生も孤独でした。
翻って中国を見るならば、第三世代の学術革命が羨ましい限りです。少なくとも、変わるという選択肢を選び、それを団結して実行に移すことができた世代は、過去に強く拘泥される日本民俗学よりも幸せですし、その意気込みに敬服するばかりです。しかし、一方で今後の第三世代の運動の継続性と統一性に関しては、私は若干の不安を感じます。施愛東博士の率直な説明によると、変化を求めた第三世代は、まさに小異を捨てて大同団結したものでした。大きな変化を達成した現在、その小異が再度顕在化することと思います。研究の方法、関心、目的、分野のいずれをとっても、一つにすることは困難です。中国においても、学問境界の溶解が今後進展するでしょうから、民俗学の多様化は避けられない。また、さらに日本民俗学を他山之石とするならば、あえて一つにすることは学問発展において逆効果です。
そうすると変動期にある中国民俗学のなかで、今後、小異の間の研究上の主導権獲得競争が起こるでしょう。起きなければ、日本民俗学のようにそれぞれが分断された拡散状況へと陥るだけです。そういったなか、本来やるべきことは、他学問との研究上の主導権獲得競争であるはずです。そこで一定の成果を得なければ、学問社会の隅っこの地位しか与えられないか、あるいは学問社会から脱落させられるかのいずれかでしかありません。日本民俗学は、まさにその危機にあります。そして、アメリカ民俗学なども、まったく同じ危機の状況にあります。日本では1950年代から学院化を進展させ、学問の標準化が行われ、その後、固定化されて変化しなかったために、民俗学の危機を迎えています。一方、アメリカでも、20世紀中庸に学院化が進展し、学問の標準化が行われ、さらに20世紀後半には、変革もなされました。その変革を試みたアメリカですら、民俗学の危機を20世紀末に叫ばなければならない状況に陥ったのです。
それぞれの国で、それぞれの民俗学を取り巻く歴史や社会・学問状況、研究環境が異なるので、まったく同じに判断することはできませんが、世界の民俗学の状況から判断すると、中国における大きな学術革命のあとに生み出される状況も、単純に楽観視することはできません。しかし、少なくとも「変革」を選択した、中国の第三世代の動きは正解だったと思います。そして、それが今後の中国民俗学の発展に寄与する学史的な出来事であったと確信します。さらに、その変革は、第二世代から第三世代への発言力の移行や、民俗学の学院化、体系化で終了するのではなく、その後も不断に継続される必要性があるのでしょう。そして、その変革を継続する強い決意を、施愛東博士の講演から力強く感じ取りました。この運動の道筋は、今後、中国民俗学から日本民俗学が学び取らなければならない重要な課題となると、私は考えています。